一度きりの人生。

どうせなら自分の人生を生きたい。

自分らしく生きたい。

そう願うなら、絶対に失くしてはいけないことがある、と感じます。

それは、「考える」こと。

もっと言えば、自分がどう生きたいのかを自分で決めること。

当たり前じゃんと思われるかもしれません。

けれど、けっこう「考える」をショートカットしたくなってしまうんです。

もう少し詳しくお話ししましょう。

「考える」のは面倒くさい

「考える」ことって、実はとっても面倒くさいんです。

ただ、「考えるのって面倒くさいなぁ」とダイレクトに出てくることはありません。

代わりに、こんな気持ちになって顔を出します。

他の人から、「こうやれば上手くいくよ」って良い感じのやり方を教えてもらって、その通りにやりたい。

「ああして、こうして」と細かい指示をしてもらったほうがラク。

失敗しても「指示が悪かった」って言えるし。

「やり方を教えてくれよ、そうすればやるから」

この気持ちが、考えるのを面倒くさがっている一つのサインです。

「考えない」の代償

でも、「考える」ことをショートカットしようとしたときに支払う代償はあまりに大きい。

自分が考えることをショートカットして、他人が考えたことをやる。

他人っていうのは上司かもしれません。

あるいは、近しい家族や友人が言うことかもしれません。

目先はとてもラクです。

けれど、それは「他人が考えた道筋を自分が歩いている」だけで、結局、どこに行き着くんでしょう?

行き着く先は、当然ですが「考えた人」「指示した人」が行きたい場所。

自分が行きたい場所では決してありません。

「考える」ことをショートカットすると、「他人の行きたい場所」に組み込まれて、いつの間にか連れて行かれることになります。

それでは「自分の人生を生きる」の正反対です。

完全に「他人の人生を生きる」になってしまいます。

そうならないためには、自分で「ここに行きたい」と目的地を決めて、歩き始めるしかありません。

確かに「考える」のはとにかく面倒くさいです。

考えるのにエネルギーを使うし、考えた結果が上手くいく保証も何もない。

ひょっとしたら考えたことは大外れかもしれません。

ですが、考えることを放棄したときに払う代償は、「面倒くさい」とか「多少、失敗して痛い目を見た」とは比べものにならないほど、大きくつらいです。

なにせ、自分の人生を生きられず、他人の人生を生きてしまうんですから。

何によって憶えられたいか

ここまで書いて、ふと現代経営学の父・P.F.ドラッカーが書いた一節を思い出しました。

『非営利組織の経営』の一節です。

私が十三歳のとき、宗教の先生が、「何によって憶えられたいかね」と聞いた。誰も答えられなかった。すると、「答えられると思って聞いたわけではない。でも五〇になっても答えられなければ、人生を無駄に過ごしたことになるよ」といった。

「考える」を放棄しつづけた先に待っているのは、こういう未来かもしれません。

どこに行きたいのか、何と記憶されたいのか、どんなに面倒くさくても、ハッキリと分からなくても、確信が持てなくても、自分で「こっちだと思う」と考えて、一歩踏み出してみること。

その最初の一歩は、周りの人から理解されないかもしれません。

けれど、一歩を踏み出したという事実は、「考える人になった」「人生の舵を自分で握った」証であり、誇ってもいいことではないでしょうか。

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